Studio Sinfonica
 
  PRODUCE'S NOTE

2003.9.13 柿落し公演顛末記(前編)

お蔭様をもちまして盛況のうちに無事公演を終えることが出来ました。参加してくださったすべての皆様に改めて感謝致します。当日を迎えるまでなかなか面白い日々を送りました。これは柿落しを迎えるまでの顛末を克明に記録したものです。(半泣き)

実は本企画、このスタジオを建てる前から構想していたのですが、会社設立などさまざまな業務に追われなかなか日程が調整できずにいました。そんな中、柿落しをするなら必ず演奏してもらおうと思っていた高校時代からの友人ファゴット奏者笠原氏が夏休みで8月5日にスタジオに遊びに来ることが決まり、オーボエの細田さんはその2日前、ピアノの矢崎さんに至っては当日の緊急召集にも関わらず急遽作戦会議が行われました。忙しい方々なので土日での開催日程の調整は難しいだろうと思っていたところ、まさに偶然笠原氏が用事で帰札する予定だった9月6日だけが3人とも演奏可能(つまり当日リハ!)という奇跡のような幸運に恵まれ、演奏会が動き出しました。
メインで演奏されたプーランクはオーボエ・ファゴット・ピアノと言う編成からほぼ1分で決定しました。その他はそれぞれのソロリサイタルを組み合わせた構成にすることを確認し、司会は矢崎さん(これも1分)にお願いすることになりました。ここで演奏会の位置付けについて矢崎さんから「中途半端にいろいろな名目をつけると演奏会のピントがボケるのでは」という本当にありがたい言葉を頂き、それは純粋な「柿落しコンサート」に結実していきました。
決まるときと言うのはものすごい勢いがあるもので、それまでのことが嘘のように急に展開し始め、その2日後には矢崎さんからプログラム原案をもとに調整を終え、演奏については信頼する各奏者に完全にお任せして、私は皆さんにお送りしたご案内を完成させ、ひたすら電話、FAX、メール攻撃(笑)に移りました。その二週間後にはすでに30名の参加申し込みがあり、嬉しさのあまり目を白黒させておりました。

その後宣伝活動は順調に進み、最終的に60名という大量のお客様をお迎えするに至ったわけですが、そこで困ったのが座席の準備と、終演後のパーティーの人数の読みでした。
椅子はずっと探していたのですがなかなかよいものが見つからず、これはと思う椅子は最低でも一脚4万円程度(40脚、占めて160万円…買えるわけが無い)という八方塞がりの状態でした。しかし助けてくれる人はいるもので、スタジオの施工業者であるハウジングオペレーション鰍フ渡邊課長がパイプ椅子を40脚準備してくださったのです。いいことは重なるものでが1,200円のところ500円でSALE中だった無印良品のイグサ座布団を発見。即そこにあった5枚と本州から取り寄せた20枚の合計25枚をGET‘s。これで座席問題は解決。
次はパーティー。これまたハウジングオペレーション鰍フ三室部長の紹介で料理家の出倉先生にお見立て頂いて大量に購入したワインなど飲み物はストックがきくとして三井クラブに発注予定のオードブルはそういうわけにはいかないので困っていたところ、またまた救世主登場。前に勤めていた会社の上司、林さんがあのおいしいカレーを提供してくださいました。(達人ありがとうございました)これでオードブルが仮に足りなくなっても何とかなる…とこれまた一安心。

さてこの時点であと4日。テレビの取材や急ぎの仕事を理由に未だ頭の中に渦巻いていた、「シンフォニカ友の会構想」の明文化と無理を承知でお願いしていたホームページの仮オープンへの打合せ…この2点については鈴木税務会計事務所のご尽力が無ければ今ごろ滅茶苦茶になっていたと思われます。まずシンフォニカ友の会の件。以前から構想していたとはいえ、何せ思いだけで作った稚拙な企画書を基に、井上次長にさまざまな問題を的確に指摘していただいたおかげで、あの文章に厳しい北大大学院法学部の岡本君にお墨付きをもらえるご案内が完成致しました。そして何より面白かったのが会の命名。さすがに「シンフォニカ友の会」は単なるファンクラブのようでまずい。「クラブ・シンフォニカ」では絞め付けがきつそうに感じてしまう。「サロン・ド・シンフォニカ」は美容室に間違えられてしまう…今までこんなに命名で苦しんだことはなかった私は完全に長考状態突入。そこに鈴木税務会計事務所のマネージャーであり今回のホームページビルダーでもある原氏から「スクエアはいかが?」という完璧な発案を頂き、これまた即決定。その後現在改修中の鈴木税務会計事務所の自社ビル「TRANS BLD.」は私が命名していたこともあり、二人の間でこっそりと手討式を行いました。(笑)
そして休む間もなくホームページ作成に移行。成果はご覧の通りですが、実は上に書いたように当初の予定では9月6日は仮オープンの予定だったのです。ところがやればやるほど私の欲と原さんの意地がなぜか共鳴してしまい、なぜか本オープンになってしまいました。(本当にご苦労様でした)ということで、原さんは2日前からほとんど寝ていない状態で当日の夕方ぎりぎりまで作成に当たり、しっかりと演奏会に出席するという離れ業を見事にやってのけられたのです。 その時点で私にはさらにプログラム作成が残っていました。原稿が完成したのが木曜日、紙を買ったのが前日の金曜日、印刷終了後スクエアの企画書に取り掛かり最終稿が完成したのが朝方。

かくして当日髭も剃らないまま、奏者3名を迎えることとなったわけです。